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阿波踊りの歴史 - 第5章

5.阿波踊りの近代的展開

1.「ええじゃないか」と盆踊り

慶応3年(1867)12月に、いよいよ「ええじゃないか」の乱舞が撫養に上陸し、翌4年にかけて阿波一円は「ええじゃないか」で浮き立つことになる。
当時の数少い記録によると徳島城下では群衆が「ええじゃないか、ええじゃないか、何でもええじゃないか……」と囃しながら勢見の金刀比羅神社に練行し、そこから讃岐の金刀比羅宮や施行の船に乗り込んで伊勢神宮に向う人も多かったことを伝えている。ここで「ええじゃないか」の経緯については述べないが、この乱舞が阿波踊りの芸態を変化させたか、何も変化させなかったか、在来の諸説を考慮しながら考察の一端について書いてみよう。

いうまでもなく阿波踊りと「ええじゃないか」では、囃す文句も踊る所作ももともと異なるものである。
ところがその前提を少し考えておかなくてはならない。そこで文政13年(1830)の御蔭詣では徳島城下から始まり、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったという。
この踊りがおもしろいというので大流行し、上方の豊年踊りに転化したとする有力な説がある。
「ええじゃないか」は豊年踊りをモデルとしたというのもよく知られる説である。

そのような説から考えてみると、阿波では得意の阿波踊りで「ええじゃないか」を踊ったのはごく自然なことであった。
ただそれまでの阿波踊りは、人形浄瑠璃の太棹が鳴物の主力を占めていたといわれるように、若干テンポの緩やかな踊りであったのに対して、テンポの早い「ええじゃないか」の大流行を契機として、阿波踊りもテンポを速め、鳴物の主役も細棹に取り替えられていったというのも、かなり多くの人たちの主張である。その真偽について実証することはできないことだが、興味深い課題の一つである。

2.最初の阿波踊り中止

これまで考察してきたように、徳島藩による城下の盆踊りに対する対策は、建て前のきびしさに対して、本格的に取締ることは諸般の事情によって容易ではなかった。とくに宗教的な発生事情をもつぞめき踊りに対しては、たびたびの規制の強化が行われているが、実際には「有来りの踊り」と規定して、一貫して踊りを禁止することはなかった。
これが初めて禁止されたのは版籍奉還後の明治3年(1870)のことであった。中止の理由は庚午事変の発生であるが、この事件はそれほど徳島藩を大きく揺るがした。

もちろん事件の発端は版籍奉還そのものにあったが、この事件の経過などについては、すでに多くの成果もあるのでそれらを参照して欲しいと思う。
ただ庚午事変が幕藩制下でも禁止されることがなかった盆踊りを中止させているということは、その事実から逆に歴史を遡及して考えるとき、徳島藩政約270年の間に、庚午事変に匹敵するだけの危機に見舞われることはなかったと考えることもできるし、また、動揺をくり返しながらも藩の権威が保たれていたということもできるのであろうか。

その翌年には廃藩置県が断行され、明治政府による相次ぐ改革が実施に移されることになり、その一環として四民平等をはじめ封建制が音をたてて解体されていく。こうした新しい時代を迎えたことによって、盆踊りも規制の枠がはずされていったように考えていたが、数こそ多くないが明治初期の史料でみる限り、盆踊りに対する統制はかなりきびしいことに気づくが、その理由を考えてみることも興味深い。

明治3年の盆踊り中止を始めとして、近代の盆踊りはたびたび中止の措置がとられている。
そのような中止の理由について調べてみると、数度の戦争や大正7年(1918)3月の米騒動などのときである。
そのことからもいえることは、盆踊りは祖先の霊を供養するという宗教上の理由は別としても、平和を謳歌し互の繁栄を願い、どこまでも楽しむといった踊りであるということが確認されてもよさそうに思う。
今日の踊りについて考えるとき、この踊りのもつ宗教性や繁栄を祈願するといった理念は忘れられ、踊りの本来の姿からはますます遠ざかっているように思うところがある。
大切なことは踊りの歴史から、そのような精神を呼び戻すことが、いまほど大切なことはないのではあるまいか。

3.ぞめき踊りこそ阿波踊りの本流

城下に大きい盛り上がりをみせた盆踊りは、古く複雑な歴史をもった民衆芸能であることは、これまでの記述でほぼ知っていただくことができたと思う。
ここではその芸態上の展開過程について、簡単にまとめておきたいと思っている。

いうまでもなくこの踊りの源流は、16世紀末における徳島城下町の建設とともに、周辺部の農漁村に行われていた盆踊りが取り込まれながら、盂蘭盆行事として城下一円に展開されるようになった精霊踊りとして定着していったものである。それに対して17世紀の中ごろには、城下の内町や新町の町人たちを氏子とする春日神社の祭礼に、各丁が組踊りをくり出して競演していたが、この踊りは中世の細川・三好氏の本拠であった勝瑞城下で盛行していた風流踊りを復活したものである。
やがて組踊りは盆行事に移されると、城下全域に波及し大踊りなどといわれて、大いに人気を博したが、この踊りは豪華絢爛で見物する人びとを幻想の世界に誘うような芸態を特色としていたことから、財政再建をめざすたびたびの藩政改革などのとき、きまって禁止されるなどの措置がとられる宿命を負っていた。
そのたびしばしば中断されているし、明治維新以降は盆踊りの市中から組踊りの姿は消え去ってしまった。

また、元禄期を中心とする18世紀前半は、わが国の衣料革命の進行を背景として、阿波藍の需要は急増し、藍商たちは大坂や江戸をはじめ各地の市場に進出して、活発な藍玉の売り込みに奔走した。また藩内の農村では藍生産を増大させたが、その栽培には大量の金肥を必要としたので、肥料商の活動も活発となるなど、徳島城下は藍商や肥料商などの積極的な活躍によって、その商況は急激に活発になっていった。これら新興商人の台頭と各地の芸能の伝播も盛行することになるが、そのうちもっとも注目されるのが俄踊りの流行であった。
こうして18世紀以降の城下の盆踊りは、伝統的なぞめき踊りと盆行事に移行した組踊りのほか、手軽に演技できる俄踊りという3種の踊りが併行して互に影響しながら盆踊りを盛り上げていたのである。
この俄踊りも明治後半の日清・日露の戦間期になると、各種の大衆娯楽の普及によって、次第に新鮮な魅力を失って、急速に衰退していったのである。

ところで徳島城下は芸所だとよくいわれるが、とくに三味線の普及は徹底していた。
そうした三味線人口の増加から流行し始めたのが、盆中の昼間に展開される娘たちの三味線流しであるが、これは太平洋戦争中に姿を消している。

そのように盆踊りの諸芸について整理してみると、精霊踊りとして発生したぞめき踊りこそ、その本流として今日にまで継承されているのに対し、近世の後半に大いに人気を博した組踊り、盆踊りを盛り上げた俄踊りなどは、時の流れとともに衰退を余儀なくされていったもので、そのような展開のことを私はy型展開と規定しておきたい。あくまで主流の座をキープしてきたのはぞめき踊りであることを改めて再確認しておきたい。
それをぞめきや俄踊りは組踊りから派生した踊りだとする主張もあるが、本来その芸態や発生の要因を異にする踊りを、本流と支流の関係などと考えること自体、非科学的な思い込み以外の何物でもないであろう。