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おわりに

おわりに

私は以上で阿波踊りの展開過程について、史料に基いてできる限り詳しく述べるとともに、この踊りに徳島藩がどのように関わってきたか、また近代の阿波踊りがどう変遷してきたかを明らかにすることに努力してきた心算である。
そのような意図がどれほど満たされたかについては、まったく自信はないのであるが、ただ阿波踊史がまさに吉野川デルタ地帯のように、網目のような複雑な流れがあって、それにも拘らず「ぞめき踊り」という本流は、ますます水勢を強めながら大海に注いでいる。
というのも全国に東京の高円寺の阿波踊りなど、70ほどの都市イベントとして、ますます発展しつづけている。やがてそれは世界の各地にもということは、決して夢ともいえない状況である。

どうして阿波踊りが、これほど広範な地域の人びとに愛され、受容されるのかについて考えてみると、そこに名もない徳島城下の町人たちが、藩による妨害に抵抗しつつ、その誇りを守り抜き、時に応じて創造性を加えることによって、より楽しく、より明るいものに仕上げていった踊りであることに思い当たる。

また、本稿では取り上げられなかったが、徳島城下をはじめ阿波は芸所として、個有の文化が展開したところである。その背景に阿波藍を中心とした商人の活動が、広範な全国市場を形成したことがある。とくに19世紀に入ると城下に藍大市が建てられるようになり、各地から良質の藍玉を需めて顧客が殺到した。その接待の場となったのは色街であり、そこは諸国の芸能を受容され、それに創造を加えて阿波の諸芸として再生産された場であった。ぞめき踊りの変遷や俄踊りの波及にも色街の果たした役割が大きかったことが知られるはずである。

そのような芸能風土の形成は、とくに三味線の普及を契機として、城下の商家などでは娘たちに三味線を習わせることが流行するため、三味線の稽古所が続々と出現する。
少し弾けるようになると発表の場が欲しくなり、その場が盆中の三味線流しとなった。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せて送り出し、自慢の種にしたという。
こんな盆の市中を彩る情緒が定着していたのも、阿波が芸所であることを自然に表現する珍らしい行事の一つであった。 こうしてそのような多彩な盆踊りを演出したのが色街であったという意味においても、色街の果たした役割や阿波踊りを演出した機能について、十分な調査や研究が進むことを期待するものである。

さて、阿波踊りの芸能的な特徴として注目しておきたいのは、囚われることのない民衆芸能だということである。もちろんこの踊りには伝統があり、また思想があり、約束ごともある。
それは正しく踏襲されなくてはならないのだが、多くの郷土芸能のような面倒な正調などはないのである。
わが連は正調を守っているなどと自慢する声も聞くが笑止千万である。そこにいう正調とは、その連だけの正調ということで、それを他の連や踊り子たちにも求めようというのは邪道であるし、すべての踊りに「正調」と思っている芸態を押し付けることはエゴの極みであろう。
要するに阿波踊りの精神だけは正しく継承しておれば、どの連も自由自在の芸態を創造すればよいのであり、さらにいえば、連を構成する一人ひとりが、その個性を出し合ってバラバラであっても、全体として阿波踊りにまとまっていれば理想的ではないだろうか。
今日に継承されているぞめき踊りとは、本来そのような踊りであるということを、ここで確認しておくことが、きわめて大切なことではないであろうか。

いずれにしても今日の阿波踊りは、夏の終りを告げる徳島で、多くの観光客を迎えて市中が踊り一色に彩られるという大イベントとして知られている。
このイベントが巨大化するにつれて、衣裳が派手になったり、さまざまな工夫も見られるようになってきた。
それは一定の評価をすべきだと思うのだが、踊りの伝統や精神については次第に忘却の度を深めているように見受けられる。
そんな伝統や精神を取り戻すためには、どうしても阿波踊りの正しい歴史を学習することを必要とするだろう。
本稿はそのための手掛りの一端として役立ててもらうことを考えてまとめたものである。

ところで、この数年の間に私と同じような疑問を懐く人びとが増えつつあることは心強いことである。
それらの人びとも徐々にその思いを行動に移しつつあるのが現状である。
本年の盆踊りにはいくつか勇気ある取り組みが市民の眼前に展開されようとしている。
そうした状況を踏まえながら、ここに阿波踊りのルネサンスを呼びかけたいのである。

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