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第1章

1 徳島城下における盆踊りの発生

1 ぞめき踊り

「ぞめき」とは騒がしいなどの意味で、派手で賑やかな踊りにつけられた名称である。具体的には二拍子の軽快で陽気さを特徴とする踊りで、今日の阿波踊りというのは、基本的にこの踊りを継承するものである。また、この踊りのことを徳島藩では御触書などの文書では「有来りの踊り」と表現しているが、それはこの踊りが城下における盆踊りの源流であるとともに、盆踊りの主流と考えられていたことを明確に示している。

現代の阿波踊り

さて、ぞめき踊りを描いた最古の絵画史料とされているのは、徳島市の森家所蔵の鈴木芙蓉の筆になる作品で、寛政期ごろの芸態を知る手掛りとされている。
その特徴は風流傘の下で歌い手と三味線を弾く人が鳴物方を担当し、それに合わせて数人が輪になって踊っている。
踊り子の頭に注目すると、揃いの頭巾をつけていて、そこには祖霊を迎えるための姿の一端が表現されている。
これは明らかに盆踊りであり精霊踊りを描いたものである。
こうした踊りは小規模なもので、多分このような盆踊りは各町で迎え火を焚いて新仏を迎え入れ、供養のために空地や辻で踊ったものと考えることができよう。

こんなタイプの踊りとして、いまも踊られているのは津田(徳島市)の盆踊りである。津田では漁師やその家族たちが海岸に集い、迎え火を焚いて新仏の名を海に向かって呼ばわり、仏とともに踊るというものであって鈴木芙蓉の絵と、ほぼ同一の芸態をもつことを知る。
そう考えたとき徳島城下の町屋の整備がすすむ過程で、津田をはじめ周辺部の村浦で演じられていた盆踊りを城下の町人たちが真似て、盂蘭盆行事として定着していったものこそ、ぞめき踊りの発生であったと考えてよいと思うのである。

その直後の文化・文政期になると、阿波では藍玉の全国市場への進出が著しくなる。
当然のように城下における経済活動も活況を呈するようになり、踊りに加わる町人たちも急増して、踊りの輪が大きくなると、辻や空地では踊れなくなり、往還道にくり出して踊りすすむ練行型の踊りに変化していったのであって、今日の阿波踊りによく似た踊りが形づくられていった。
そのように練行型に変化したぞめき踊りは、今日に至るまで大規模化の一途を辿っている。
それは同時に原初の宗教性を稀薄化し、次第に遊芸的な踊りに転化していくのだが、
いずれにしても大規模化すると藩による取り締りも困難なものとなっていくのは当然である。
そこで藩は天保期から盆踊りの町切り策を断行しているが、それについては次章で詳述する。

2 組踊り

ぞめき踊りに対して、最初から大規模の踊りとして華麗さを誇っていたのが組踊りである。
この踊りは中世の畿内で人気を博した風流踊りを継承するもので、戦国末期の畿内を征圧した三好政権を、軍事的に支えた阿波の国人衆の間にも大流行し、阿波三好氏の本拠である板野郡の勝瑞城下にも伝播して町人衆の間で盂蘭盆行事となって定着していたようである。
天正6年(1578)の盂蘭盆には、時の城主十河存保は京都から風流の芸能集団を招いて勝瑞城内で演じさせ、だれにも観覧することを許したことが福島玄清の『三好記』に詳述されていて、当時の阿波に風流熱が高揚していたことを知ることができる。

勝瑞城は同10年に長宗我部元親によって落城させられ、その後は同13年に蜂須賀家政が阿波入部を果たすと、その居城として徳島城を築城し、その周辺に城下町を整えていくが、その町屋には続々と勝瑞城下から商工業者が移住しはじめ、やがて城下の町屋における多数派が形成されていった。
町屋の整備がすすみ、町内の結束を強化することが必要になってくると、城下の中心部である内町や新町の町人たちの氏神である春日神社の秋祭りのとき、勝瑞から移住した町人たちを中心に、風流踊りを復活して各町が組踊りをくり出して競演するようになった。
その記録として注目しておきたいのが『春日祭記』という慶安3年(1650)の記録である(四国大学図書館蔵の凌霄文庫)。

組踊りというのは100から120人ほどの大規模な踊りで、華美な舞台で小人数で演じるメインの踊り(中踊り)と、その回りを多数の踊り子が回り踊りで景気づけるほか、踊りを乱されることがないように警固役を配していた。
この踊りは本来華麗な衣裳や持物で観衆の眼をひきつけ、幻想の世界に人びとを誘うことを狙った贅をつくした踊りであった。

藩政初期の組踊りは、そのように春日神社の神事として当社の氏子によって演じられていたが、助任・福島・富田・佐古などの町屋にも勝瑞からの移住者は多い。
それぞれわが町でも風流踊りを復活したいと思うようになるのは自然である。ところが藩の側からすれば、各町が氏神の神事として大規模な組踊りを奉納することになると、9月17日の春日神社から10月末の金刀比羅神社の祭礼まで、毎日のように城下のどこかで華麗な組踊りが演じられ、それを観ようと見物衆が押し寄せると、約半月に亘って市中の日常性が失われることになる。
そのために神事から分離して盂蘭盆の3日間に集中して演じるように、藩が指導したものと考えられるが、それがいつごろのことであったかについては、史料がないので即断はできない。しかしそのような経過を辿ったことは確実だと思う。

その後の組踊りは大踊りといって、盆踊りの主流に踊り出てきたが、その最初のピークは元禄期のことであったと考えられる。
藩としてもそのころまでは組踊りを奨励こそしなかったものの、呉服商や諸職人にとっては盆景気によって儲かるし、それは藩財政の収入増を期待できるイベントとして、規制することが決して得策でなかったものと考えられる。
こうして初期の組踊りを経済的に支えていたパトロンは、各町の特権的な初期豪商たちであるが、この踊りがピークに達した元禄期は、阿波藍の需要が急増したことから、城下にも新興の藍商や肥料商などの進出が目立つようになって、藩の経済政策も転換期を迎えることになる。そのような状況の変化を背景にしてやがて、組踊りは下火になっていくことを避けられなかった。

3 俄踊り

18世紀になると徳島城下では、藍商をはじめとする新興商人の進出が顕著となる。それは相対的に初期豪商の後退を意味するが、そのような経済変動を背景として、組踊りが徐々に減少していったのに反して、新興商人によって俄踊りが盛り上げられ、盆踊りの3日間の賑わいを大きく支えていった。

もともと俄踊りというのは阿波特有の芸能ではなく、上方をはじめ諸国で盛んに流行していた民衆芸能である。

その基本は即興の寸劇のことで、1人または数人で歌舞伎・人形浄瑠璃などの真似ごとを演じたり、世相を風刺したり寄席を真似たり、さらに声色や手品を演じるものなど、まったく多彩な芸態に分けられる。その契機となったのは江戸や大坂に藍玉を売り込んだ藍商たちが、歌舞伎風の衣裳を着飾って芝居の触りを演じたものである。ところが阿波の伝統芸能として人気があったのは人形浄瑠璃であるが、そのため旦那劇として義太夫の稽所が隨所にあって、少し腕を上げると人前で演じたくなるもので、人形のような衣裳で市中にくり出すことも多かったとされている。
そのような俄芸のことを衣裳俄と称し、盆踊りで賑わう市中で、見物人の集まっているところに出向いて寸劇を披露した。
この衣裳俄は富商でなくては演じることができなかった。

しかし、豪華な衣裳を纒うことなどできなかった下層の町人たちは、浴衣で目隠しをして落語の小咄や声色、風刺劇や手品などによって市中の人びとから拍手喝采を得ながら、城下狭しと走り演じたのである。そのためこのような俄芸のことを走り俄といった。

もっとも興味深いのは早俄と子供俄であろう。早俄は若い家臣たちが歌舞伎衣裳に身をやつして俄を演じるものだが、寛文期から家臣に対する禁足令が出ているため、市中で公然と演技することはできない。
そこで衣裳を持ち歩き、商人たちの宴席に招かれて演じ、もちろん酒食や礼金が出ることになる。 それほど家臣たちの生活が窮迫していたという経済的な背景があったといえるが、当時の町人文化は武家社会にも深く浸透していて、芸事に大いに魅力をもっていた家臣が多かったことも、このような早俄を盛行させる要因であったことを否定できない。

このような家臣たちの行動は、藩とすれば身分制を動揺させ、藩の支配を弱体化させる由々しき現象と捉え、徹底的な禁止に踏み切っている経過も注目されるが、それについては次章で詳述したい。

武家社会との関わりで、いま一つ注目しておきたいのが子供俄である。子供俄は衣裳俄の子供版と考えてよいが、盆中に市中に出ることを禁じられている武家は、子供俄を屋敷に招き入れて演じさせることが多かったといわれている。 これについても次章に譲るが、多分俄を演じた後は、武士とその家族たちも子供たちとともに賑かにぞめき踊りで盛り上げたものと考えられ、禁足という抑圧からの解放感を満喫したものであろう。

いずれにしても、18世紀から盛行に向かった俄踊りは、武家社会も町人社会にも深く浸透することによって、市中の盆踊りをも大いに盛り上げていたことを、藩の触書や記録の断片などによって知ることができる。その他に昼間の市中を彩った三味線流しも、俄踊りとともに流行したことであろう。

以上のようにぞめき踊り、組踊り、俄踊りは、それぞれ芸態を異にするだけでなく、その発生の背景も相違している。もともと本流とされる踊りがあって、他の踊りはその本流から派生するというようなものではなく、まったく異質の踊りが、それぞれ個性を発揮しながら盆の市中に混然と覇を競っていたというのが、18世紀以降における近世城下の盆踊りであるということを、正しく認識しておくことが大切であろう。

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