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第2章

2 藩による盆踊り支配と町人勢力

徳島城下の盆踊りに対する藩の規制として最古の史料は明暦3年(1657)の触書である。
それはこの触書が出されたころには、藩が取締りを強めなくてはならないほど、隆盛に向かっていたと類推できるであろう。
この触書によると盆中の踊りを取締ったのは20人の町横目(下級藩士)で、もちろん町奉行の下でその任を担っていたが、この史料には取締りの具体的内容については何も示されていないことから考えると、市中に群衆が乱舞するほどの盛り上りは見られなかったのではないだろうか。

ところが、それから14年後の寛文11年(1671)の盆踊りに対しては、触書の内容は具体的なものになってくる。もちろん、このころから延宝期(1673~80)にかけては、徳島藩政の確立期に当たり、身分支配の体制が急速に整備される画期的な段階である。
そのような藩体制の整備を背景にするとともに、当時の徳島城下は都市的な構造も充実し、それに伴なって盆踊りも組踊りが合流したこともあって、踊りの規模も大きくなり、見物人も市中に溢れるようになってきた。そのようにして藩の盆踊り規制も具体的なものとし、取締りを強化しなくてはならなくなったことが考えられる。この触書は次のような3項目を示している。

1)盆踊りは7月14日から16日までの3日間に限ること。
2)家中は盆の3日間の外出を禁じられ、どうしても踊りたければ門を閉ざした屋敷内で踊ること。
3)諸寺院に踊り込むことを厳禁する。

この触書が出されたことによって、藩による盆踊り規制が本格化したと考えることができるが、この種の規制は他の諸藩においては早期に示されているもので、鳥取藩などでは承応期(1652―54)という18年ほど以前に出されている。しかも、その内容はそっくり鳥取藩の触書を真似されていることも興味深いことである。

この触書で盆中の武士に対する禁足令を命じていることは、盆中の城下では人が溢れ、市中の喧騒に家中が巻き込まれることが、藩の権威の低下につながるといった危惧を表現していることに注目しなくてはならないのではないだろうか。

貞享2年(1685)は徳島立藩からちょうど100周年に当たる年であり、城下町の整備も著しくすすんでいた。そのときに出された盆踊りに対する触書は、その後の取締りの基本となったものである。それは寛文の触書が寺院に踊り込むことを禁じるだけのものであるのに対して、家人の動向も監視できるように開放することや、見物人は整然と見物することを命じるなど、踊り子だけでなく見物人にも規制が及ぶようになっている。

その直後の元禄期にかけて、次第に規制が強化されていくが、17世紀末から18世紀初頭の徳島藩は財政事情も悪化していたし、城下の商人による経済活動は活発化し、窮乏化する家臣の風紀も乱れてくることなど、身分制の矛盾も徐々に顕在化した段階があった。
盆踊りに対して具体的で細かい取締りが必要になってきたのは、そのような社会経済的な背景を反映しているものと理解できる。

徳島藩における貞享・元禄期の動向は、吉野川流域農村部に広大な藍作農帯を形成し、藍商たちの市場進出もめざましく、また「肥食い農業」として知られるように、干鰯や油粕などの大量の金肥を必要とした藍作のため、肥料商も活躍の場が用意されたのである。

これらの藍商や肥料商は徳島城下に進出し、とくに船場や新町に店舗を構え、新町川畔に藍玉や肥料を貯蔵するための土蔵を建て並べ、これら倉庫から直に積み下しできるようにしたので、この一帯は徳島城下の経済活動の盛況に向う様子を象徴する景観を形成していったのである。

経済活動が盛り上がりをみせたことによって、藍商や肥料商をはじめ新興商人の下に、労働力も急速に吸収されるようになると、徳島城下はその積極的な経済活動によって注目を集めるようになり、全国的にも10指に数えられるような大都市に発展した。
そのように藍を核とする経済活動の拠点化がすすむようになると、当然のように藍商などの藩に対する発言力も強まって、町人勢力は大きく台頭することを背景として、町人文化も形成され、それは盆踊りにも大きく反映されるようになるのは必然であった。

そうした城下の経済発展を背景として、藩の盆踊り対策のうえでも、貞享・元禄期は画期的段階を迎えていることを、当時の法令から読み取ることができる。
そこで、貞享2年(1685)の触書に注目すると、在来は規制されていなかった見物人に対する細かい取締り方針が示されている。そこには市中の盆踊りが大いに盛り上がり、見物人もその数が激増したことによって、取締りも容易でなくなったことを反映していると考えられるだろう。また、藩祖家政の城下町建設の着工から、ちょうど100周年というこの年には、町屋にも商家が建ち並び、それまでの盆踊りが辻や空地で行われていたものが、空地などがなくなれば精霊の輪踊りも、街路にくり出す練行型のものに変化し、踊りの集団も大きく膨れ上がってきたと考えられる。
そのように貞享規制が出された背景には、今日の踊りに継承される練行型の踊りが発生し、市中は喧騒の巷と化してきたという、決定的な変化に対応するための規制強化であったと考えざるを得ないだろう。
この触書が出されたころから、ますます城下は繁栄に向かい、踊りや見物人口も激増するため、その規制も困難となっていった。

徳島藩の経済活動は一貫して活気に満ちていたが、それに対して徳島藩の財政事情は悪化の一途を辿っていた。
10代藩主の重喜が襲封した宝暦4年(1754)には、藩は莫大な負債で窮迫し、家臣層の窮乏化も目に余るものがあったことが記録されている。
こうして重喜とその子で11代藩主治昭は、たびたびの藩政改革を実施することによって、藩財政の建て直しに全力投球しなくてはならなかった。
その改革は当然のように増税をめざし、領民に質素倹約を押し付けることを基調としていた。また、家臣たちに対しても風紀を引締めることを命じるものであった。
それは盆踊りにも大きく反映することを避けられなかったが、もっとも規制の対象とされたのは華麗な芸態をもつ組踊りや衣裳俄であった。
こうして盆踊りの本流である「有来りの踊り」といわれていたぞめき踊りと、浴衣懸けでも演じることのできる走り俄などは許したが、こうした抑圧は城下の盆踊りの態様を大きく変容させるものであった。

そのような藩の対策は、当然のように町人社会の反発を招いたようである。組踊りが禁じられたことから、城下周辺の各所では密かに組踊りが演じられていたことが記録されていることも注目しておきたい。
また、盆中に顧客を招待した商人たちは、その宴席に武士による早俄を招いて演じさせるなど、藩の規制の網目をくぐって、何としても踊りの伝統の火を消させないように苦心していることも、かなり多くの史料によって確認することができる。

これらの対策は藩による盆踊り規制の一例に過ぎないが、盆踊りは規制を受けるたびに不死鳥のようによみがえり、そこに新たな創造を加えながら、より魅力的な芸態を生み出すとともに、その規模も限りなく大きくしている。そのようなところに盆踊りに対する城下町人たちの自負を感じさせるところがあるだけでなく、それに対して藩も取締りを徹底させることができなかった、どうしようもない経済的な背景があったことにも注目しておきたいが、いよいよ藩政の危機を深める天保期になると、もはや手心を加えられなくなる。

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