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第3章

3 城下の町人が盛り上げた盆踊り

18世紀初頭以来、城下の盆踊りが異常な盛行に向かったのは、城下の富商層の経済力を背景とする現象であったことは、すでに前章でも触れておいた通りである。
ところが藩財政の窮迫は止まるところを知らず、宝暦・天明期にはいよいよ深刻の度合いを増大させていく。
そのために当然のように、たびたびの藩政改革に取り組まなくてはならなかった。
前節にも述べたように、10代藩主の蜂須賀重喜の行政改革も注目しなくてはならないが、主として藩債を整理して財政を再建するための方策にも注目しておきたい。
この改革といっても富裕層からの借上をはじめ、藩が藍玉の流通過程に介入して取引税を徴収したり、運上銀や冥加銀を増徴しようとするものであった。
そこで税収を確保することを目的として、倹約令を出し租税負担者の担税能力を落ちないようにしようという考えの一環として、盆踊りに対する禁止や規制を格段に強化したのである。

こうした藩政改革の一環として盆踊りを抑圧しているが、その取締りもかなりきびしいものであったと考えられる。
ところが目下のところ藩政中期までの取締りの様子を伝える史料は発見されていない。
そのことを理由として藩は盆踊りを取締らず、若干の違法も黙認しつつ町人層のガス抜き効果を期待したなどという主張もある。
ガス抜き論は別としても、つねに藩は触書の線に添って盆踊りを取締らなかったなどと結論づけることができるであろうか、それは余りにも非論理的な考察結果のように思われる。
ただ該当史料がたまたま発見されていないだけのことで、いつの盆踊りにもきびしい監視がつづけられ、厳重注意や指導が加えられていたものと考えられる。
それは藩の権威を背景として、きびしい規制をしながらも、それを自ら形骸化するように規制違反の踊りを黙過しつづけていたとすれば、それこそ藩の権威は維持できず、自ら墓穴を掘ることになるからである。
ただ、この種の史料が確認されていないということは、町人層が藩に対して反発を強めることがないように、かなりな手心を加えていたと考えることはできるであろう。

そのことは城下の商人勢力が大きく伸びてきたことと、藩の盆踊りの取締りに町人層に対する、かなりの妥協を引出す重大な要因となったことを知らされるであろう。
逆に考えれば藩の城下支配はきわめて困難であったことを考えさせる。そのような藩と城下商人との妥協が現実に行われていたとしても、幕藩制の下では領民に対して藩の権威が目に見えて低下することは、何としても阻止しなくてはならないというのが、藩の最低限の取り組みであった。

そうした藩の妥協的側面=最低限の施策として盆踊り政策を考えてみると、触書の文面に見られるように、その抑圧方針は徹底したきびしさを打出していることが読み取れる。そこに藩の権威が誇示されているのだが、取締りには相当に手心が加えられていることは前に述べた通りである。

そのような事情は町人層の間でも深刻に受け取られていたものと考えてよい。つまり、藩に対する反発は極力押え、楽しい盆踊りを衰退させることがないように、一部に抵抗の動きがあったことも事実であるが、その大勢は藩による規制の手心に応えて、徹底した取締りの対象とされないように、心配りがされていたことも事実である。それにしても重喜・治昭の2代の治政の下では、一部例外を除くと町人衆の間で自己規制も徹底していたことに注意しておきたい。
ところが2代の改革時代を経て斉昌治下の文化・文政期に入ると、盆踊りは再び盛り上がりをみせるようになってくる。その状況を具体的に伝えているのが藩が公儀に報告した「諸国風俗問状答」によって知ることができるが、それについてはこれまでに詳細に紹介しているので、ここでは触れないが、そこには藩政改革期と打って変り、徳島城下の盆踊りは未曽有の盛り上がりを見せていることを記している。

盆踊りが大きく盛り上がるということは、いわば踊り景気を通じて藩経済に還元されるという政治的効果が期待できたことにも注目しておかなくてはならないだろう。
そのことに関しては徳島藩の財政運用の構造的な反映としての特質にも深く掘り下げた考察を避けることができないが、ここではその内容について触れる余裕がない。そのため盆踊りの直接的な経済効果だけに絞って考えてみることにする。

城下では盆踊りともなれば、踊り景気で浮き立った。とくに組踊りや衣裳俄はもちろん、娘たちの三味線流しには衣裳を新調し、とくに商家の親たちは豪華な衣裳を娘に買い与え、その華美を競う風があったといわれている。また髪結いや小間物商から雑貨商まで、その景気は俄然よくなる。
また盆踊りの市中は見物人も大挙して市中に押しかけるために、酒食を商う小商人たちも大繁盛である。とくに組踊りが行われると舞台造りをはじめ、鳴物の楽器にも注文が殺倒する。
それを盆景気と呼んでいたというが、こうして城下経済を活性化するうえで、藩もできることなら盆踊りを保護し奨励することによって、財政収入を増やすことができることは明らかである。
それにも拘らず藩が盆踊りにきびしい規制を加えているということは、藩体制を動揺させ権威の低下を何としても阻止しなくてはならないという差迫った政治課題を抱えていたことによると考えなくてはならない。そこに徳島藩政の複雑な矛盾を感じ取ることができるであろう。

ここで大胆な推理を働らかせるとすれば、ぞめき踊りが今日の阿波踊りのような形態に固定するのは、ほぼ文化・文政期のことだと考えられる。
こうして各丁ごとに集合して大集団を形成してぞめき踊りを楽しむようになるのだが、これを満足に踊らせるためには、伴奏である鳴物や囃が果たす役割は大きさを増してくる。
多数の三味線や締太鼓の参加を不可欠とするが、その必要を充足させようとすれば、三味線の弾き手が急増しなくてはならない。
それが可能となるのが文化・文政期のことだといわれていることからしても、この推論が必ずしも根拠のないことだとは考えることができない。

また、ぞめき踊りが宗教的な踊りから楽しく踊り、見物人をも浮き立たせるような踊りに変質を遂げたのも、この段階のことではないだろうか。
そこに城下で藍大市が立てられるようになり、花街が隆盛をみせていったことが、重要な背景として考えられるし、そんなところから潮来節が伝わり、踊りの中にヨシコノ節が持ち込まれたことも、そのような事情を現出することになった要因だと考えることもできるのである。
この文化・文政期は盆踊りを大きく変えていった重要な画期として位置づけることができるであろう。

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