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阿波踊りの歴史 - 序

歴史的に阿波の四季を彩る民衆芸能は数多いが、人形浄瑠璃と阿波踊りの知名度は抜群のものがある。
とくに阿波踊りは今日においては海外にも関心がもたれ、「阿波といえば阿波踊りの国」とまで認識されるまでになっている。
しかし、この踊りがどのような起源をもち、またどんな展開を経て今日に至っているかについては、ほとんど知られていないというのが現状で、その歴史的な研究は今後における阿波踊りの、さらなる発展を図るためにも緊急の課題となっている。

ところで歴史的に徳島城下で、特定地域の町人たちが相互の安全や人的結合を願って発生し、また、他地域との交流を通じて異質な芸態が影響し合ったり、時代の経過とともに創造が加わることによって、著しい変遷がみられることは、民衆芸能のもつ特質だといえるだろう。
それにもかかわらず民衆芸能の展開について正確に伝えてくれる記録はほとんど皆無の状態に等しいといってよい。
阿波踊りについても決して例外ではなく、そうした事情が阿波踊りの歴史的研究を困難なものとしてきたはずである。

さて、阿波踊りの芸態上の特徴は、不特定多数の徳島城下の町人たちが、市中にくり出して大乱舞を展開するものであるので、僅かな刺激によって暴動化する危険性もあった。しかも盆踊りという宗教的なイベントとして盛り上がった踊りであったため、抑圧することもできず、領主の側からすれば不安がつきまとったのは当然である。つまり、精霊踊りを建て前とする踊りであるため全面的に禁じることもできなかった。
そのうえ踊りを経済的に支えていたのは、各町における富商層で、これら富商たちは藩財政を支える大切な人びとであったことも、藩にとって踊りを規制することを困難にしていたことにも注目しなくてはならないであろう。

こうして藩は城下の盆踊りに対して、手を拱いていたかというと、決してそうではなく、組踊りや俄踊りなどのような、「有来りの踊り」といわれていた精霊踊り以外の踊りに対しては、たびたび禁止したり、きびしく取り締っている。
それはこれらの「有来りの踊り」に合流してきた異質な踊りは、宗教的な基盤をもっていなかったからだと考えることもできる。
これらのことは阿波踊史を考えるうえで、きわめて重要な視点であろう。 そのような視点から藩の民衆芸能政策のあり方を明らかにすることは、幕藩制国家の領民支配の特質を理解するうえで、研究上の重要な契機となることを疑えない。

以上のような阿波踊りと藩政の関わりのほかに、踊りの芸能史的な展開過程を明確にすることこそ、もっとも興味深い課題である。
いまも一般的には蜂須賀家政による徳島城の完成を祝って、城に招かれた町人たちが踊り狂ったのが、この踊りの起源だとする俗説が信じられている。
しかし、史実は城下の町人が盆踊りとして盛り上げてきた踊りであり、この踊りに対する藩の関わりは、踊りに水を差し、きびしく規制しただけのことである。 その事実を明らかにすることも大切であるとともに、藩の禁止や取り締りが強化されるたびに、踊りの芸態に変化がみられたり、藩に対する抵抗も強まっていることなども、興味深い研究対象であろう。

いずれにしても、阿波踊りは阿波が誇り得る郷土芸能であり、ますますその発展を期待するためにも、その歴史から多くのことを学び取り、より創造性を加えることは大切であろうと思う。
そのような意味において、できる限り多くの阿波踊りに関する歴史上の情報を、読者のみなさんに提供しようと考えているが、それらの情報が阿波踊りのさらなる発展のために役立てられるとすれば、私としてそれこそ望外のよろこびである。