阿波踊りの歴史 - 第4章
4.阿波踊り取締りの本格化
天保期の徳島藩は全国的動向と同じく、天災や飢饉に見舞れたし、天保13年(1842)には藩最大の上郡一揆も発生するなど、藩の屋台骨をはげしく揺り動かした。とくに危機的状況にあった藩財政を建直すために、藩官僚の能力では対処できなかったことから、藍商の志摩利右衛門を財政方に登用し、利右衛門は領内の藍商をはじめとする富裕層の協力によって、莫大な国恩銀を掻き集め、やっと藩の負債を解消させたほどである。そのことは逆に商業資本の成長を意味し、その下において阿波踊りもますます遊芸化し、盆中の城下は騒然としてきたため、その風俗や治安も乱れていった。
藩とすればそのような阿波踊りを黙認することはできなかったものと考えられる。
そこで天保期の踊りに対する規制として注目しておかなくてはならないのが踊りの町切り規制であろう。
この町切り規制は鳥取藩などでは、すでに近世初頭に制度化されていることと比較して、徳島藩の場合は200年も遅れて実施されたことは注目に価しよう。
そこには徳島藩が盆踊りの背後に存在した城下の有力町人との妥協を必要とした経済的理由や、盆踊りが宗教的な民俗芸能であるという建て前を考慮せざるを得ないといった、さまざまな理由があったものと考えられるであろう。
しかし、踊りが時代とともに宗教性を薄め、遊芸化していったことや、家臣に対する禁足令が無視されるようになると、規制を強化することによって、藩の権威を回復させる方策が打ち出されることは必然のなり行きであった。
そこに町切りが断行されて踊りを町内に閉じ込め、また家臣に対する風紀の引締めを強化するほか、町人に対しても違法な踊りをきびしく取締ることによって、城下支配を強化するための挺入れを図っていて、藩にとって天保期が危機的段階にあったことが知られる。
ここに取り上げる蜂須賀直孝は10代藩主重喜の子で、幼名は次郎吉、中老の士組頭蜂須賀一学直芳の養子となり、天保元年(1796)6月10日に直芳の死により7月19日に家督相続して士組頭を勤めた。当時は11代治昭による寛政改革の厳格さが緩み、12代斉昌の治下で城下の町人社会には解放感が漂って、風紀も乱れがちで、その風潮は家臣層の間にも及んでいた。
また天保8年(1803)から藩は家臣に対する綱紀引締めと、藩財政再建のために富商層への増税も意図される。
そうした政策転換は盆踊りにも微妙に反映された。とくに家臣に対する引締め方針を出したが、そのためのターゲットとされたのが直孝である。
御老中千石の蜂須賀一学様、昨子年七月盆踊りの砌、兼て近年諸家中踊りの場所へ出候義は堅く御停止のところ、抜けて御出候所見つけられ乱心に申し立て座敷牢に入り候ところ、当7月牢を抜け出し讃州白鳥辺りまで参り候を、古物町商人三人参り合せ、御屋敷へ飛脚差し越し、御迎えに参り連れ帰り申すにつき右三人へ金五匁宛の御礼これあり候趣、右につき又々内牢に入れ置き候さて、天保期ともなれば盆踊りに関する記録なども若干利用できるようになるが、新町の商人中村利平によると、家臣たちも変装などして踊りの群衆の中に合流し、ぞめき踊りを楽しむようなことは、決して珍らしいことではなかったと記している。
そこで考えてみると、藩は、とくにその任を担当した目付たちが、家臣たちの踊りをきびしく取締めようとすれば、それはそれほど困難なことではなかったものと思われる。しかし、なぜ本格的な取締りをしなかったかについて考えると、家臣たちを片っ端から逮捕し処分するということになれば、町人層に藩の権威の低下を見破られ、ますます権威を保つことが困難になるのではないかという、配慮が働いたことがあったであろう。
その上に直孝のような大臣を改易させるということは、家臣たちの自粛を促がすことになると考えたことであろうし、まして町人たちの違反に対してきびしく処断することを容易にするだろうという思惑が働いていたとも考えることができるであろう。
そのようにみてくると、家臣層の禁足令違反の取締りの徹底を期するためには、どうしても直孝のような名を知られている武士にターゲットを絞ることによって、その政治的な効果を狙うということも当然であろう。
そのように考えるとき直孝は家臣の風紀を糾すための犠牲に供されたといえるであろう。
こうして直孝は改易されるというきびしい扱いを受けることになるが、その後に藩は一学家に養子を入れて御家再興の取り計いをしていることからすれば、ますますこの措置が狙いとしていたものが、きわめて明確に理解できるように考えられてくる。
城下の盆踊りは、町切りを命じると群衆は「新町橋まで行かんかこいこい」と声を揃えて橋をめざす。これは一種の抗議行動であるが、すでに文化・文政のころからきびしく禁じられたのが笹踊りである。笹踊りは盆だけでなく神社の祭礼にも演じられていたもので、歌舞伎風の衣裳で寸劇を演じたり、仮装や裸体の演技を披露することで、広儀には俄踊りの範疇に属するといわれている。風俗の乱れに神経質であった藩としては、盆踊りに混乱を持ち込むことを恐れてきびしく禁止していた。
しかし、笹踊りを実際に取締った事例は幕末の史料でしか確認することができない。
天保15年(1844)の記録には「組踊り少し、俄は多し、昼夜ともぞめきは例年のごとし、御免許町に野稽古の踊を趣向して、右発願人町役人など皆々御咎を蒙る」と記している。御免許町は西新町5丁目であるが、組踊りに武家社会を風刺する野稽古の踊りを演じたことで、きびしく取締められたというものである。
また、弘化3年(1846)には仮装で踊った20人の婦人が捕えられて入牢、その後に市中引廻しという厳罰に処せられたと記録されていることに注目したい。
この史料によると坊主姿や半裸の仮装で演じた俄踊りであるが、御免許町の出し物といい、この婦人の俄といい、ともに武家支配を揶揄したり、藩の規制を全面的に無視した踊りであって、当然そこには藩政に対する抵抗の意思が城下の町人層の間に漲っていたという社会状況を象徴している。ここまでくると藩でも黙認することはできなかったのであろう。
以上のようにして、徳島城下における盆踊りは時代とともに隆盛をみたが、いよいよ藩の危機が深刻さを増した天保期から幕末期には、踊りも大規模に展開すると、一部には藩の規制強化に対する反発も強まりをみせるようになる。
そうなるとこうした踊りを看過すことが困難となって、蜂須賀直孝の改易といった思い切った処分を断行したり、笹踊り風の違反行為を徹底的に取締らざるを得なくなってくる。
私たちは以上のような天保期以降の異常な取締りを必要とするようになった政治や社会経済的背景について、しっかりと見据えながら、そこから城下の盆踊りとは何であったのか、またそれを今日にどう繋げていくべきか、さらにどう変えなくてはならないかなど、学びとるべきことは山ほどある。